堀江敏幸『熊の敷石』。
文庫化されていたのを機に再読。表題作は、ユダヤ人虐殺やボスニア紛争、眼球を欠いて産まれた子どもといった重いテーマがでてくる一方で、カマンベール投げ大会やペタンクといったちょっと力の抜けた話、語り手が取り組んでいる学者リトレの自伝からの話など、様々なエピソードが散りばめられていて、かといってスノッブであったり頭でっかちであったりするわけでなく。とらえどころのない多様なテーマの折り重なっている小説だ。こうした時に頼りになりそうなのが作品のタイトル「熊の敷石」であるが、ラ・フォンテーヌの『寓話』からとられた「いらぬお節介」を意味するこの言葉が、友人ヤンから過去の話を聞きだす語り手の罪の意識を指すのかもしれないが、作品全体をひとつにまとめあげるような力を持っていない。もちろんそれは悪い事でなく、むしろこの作品の積極的な魅力になっている。同時所収「砂売りが通る」の中にはこんな一節があり、これもヒントになるかもしれない。

気配りだとか思いやりだとか、感情と行動のはざまの領域をそれらしい言葉でくくるのは、結局なんらかの規範の内部にとどまる八方美人的な姿勢だ。(中略) 自分がしてもらいたいことを他人にしてあげるという理屈は、考えようによっては謙虚で、奥ゆかしくて、行為を感じさせるものだが、それはなかば自慰的な行いでもあるのだ。

ほか個人的に気になった箇所は、作品の本筋と関係ないが、友人ヤンによって「なにもしないでぼんやり過ごすのが得意な日本人」と語り手が表現されている点。これは著者自身の性格から取って来ているのではないか、と感じた。昨夏出た、ユリイカ増刊の川上弘美特集で、都電に乗りながら川上―堀江が対談しているが、そこで、学生時代に映画しか観ていなかった時期があると語る川上に対して、堀江敏幸は「映画すら観ていなかった時期がある」というようなことを話している。もちろん何もしていなかった=何も考えていなかった、でもないだろうし、何もしていなかった=無駄な時間だった、ということでもないだろうが。保坂和志のエッセイに「何もしなかった学生時代」というのがあって、題名どおり、何もしてなかった学生時代の話が書いてある。小説家と言うのはやはり不思議な職業だなあと思う。

橋本治『'89(上)』(河出文庫)。橋本治寺山修司のつながりが気になる。寺山コレクションも同じ河出文庫から出ていたな。そのうち1冊の解説を橋本治が担当していた。まあ雑な見当としては、家出、自立というような点。
・阿賀猥『ナルココ姫』(思潮社)