『ためらいの倫理学』の感想。著者自身があとがきで要約してくれているように、収められた文章に共通するのは「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」という信念だ。そして大岡昇平カミュ村上春樹といった作家の文章を引きながら著者の追い求めているのが、多くの哲学者や評論家が拠ってしまう「審問の語法」とはちがう、別の「言葉づかい」であることもまた、一貫している。文庫版の解説を担当している高橋源一郎が、『文学じゃないかもしれない症候群』所収の「威張るな!」で、太宰治の短編「親友交歓」(高橋が太宰の中で最も好きだという作品)を取り上げて以下のように書いている。

ものを書くということは、きれいごとをいうということである。(中略)いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。

『ためらいの倫理学』で指摘されている、サルトルが(結果として)用いることになった論争の手法、「非―西欧世界に対する改悛を先取り」して、「西欧世界内部のローカルなヒエラルヒーで」「不敗のポジションを手に入れ」たやり方は、高橋源一郎による「親友交歓」の読み取りに近いものがあると思う。再び「威張るな!」から。

おのれの「正義」しか主張できぬ不遜なもの書きの唯一のモラルは「他者への想像力」である。だが、そのいいかたはすでにきれいごとであろう。必要なのは「威張るな!」のひとことである。最低のもの書きのひとりとして、ぼくはそのことを烈しく願うのである。