保坂和志カンバセイション・ピース』(新潮社)
記憶、存在論、視覚、認識、アフォーダンスみたいな話、神の存在証明。会話の中で、また語り手の頭の中で、哲学的な問題意識が深まったり広がったり、そしてまた謎が増えたりとするけれど、そうした会話や思索の中身ももちろんだけれど、私はその会話や思索の「始まり方」「キッカケ」も気になった。例えば、作中にも出てくる『魔の山』なんて、確か時間論が結構な分量をとって闘わされていたり(ただT・マンには哲学的センスは皆無と中島義道が書いていたような記憶あり)、夏に読んだ埴谷雄高『死霊』でもバトルが起こるのだが、両方の作品とも、難しいことを考えているのは難しいことを考えるような人だけであって、そうでない人はその議論には参加できない。ところが保坂和志の小説は、日常生活の中で、家族の会話や野球の試合やちょっとしたその日の体験談から、話が深まりや広がりを持ち始める。そしてそこに参加するのは小説を書いているような知的(訓練?)に優れたものだけでなく、普通のサラリーマンや主婦、さらにはたどたどしい言葉でしか自分の考えを表現できない若者まで、その場にいる人が加わって話が進んでいく。ここには、活字離れやサブカルチャー化といった教養の質の変化、といった問題を考えるヒントがるように思うのだ。もちろん、学校教育といった点を考えるヒントも。
全然別の話になるが、『カンバセイション』の語り手が恋愛小説を書こうとしてなかなか筆が進まないでいる小説家、という点が私は気になっている。