マンガ

山本直樹『YOUNG&FINE〜うみべのまちでぼくらはなかよしだったか〜』(双葉社
ブックオフで100円で買ったのが申し訳なくなる素晴らしい作品。海に面した地方の小都市、高校生、夏、性体験、という作者のマンガではよく出てくる一昔前の青春ドラマのような世界。主人公は成績は芳しくないながらも(おそらく)進学校ラグビー部員。成績優秀なかわいい彼女がいて、さらには家の離れに女性教師が下宿をしにやってくるという、マンガとしてはベタながらやっぱり羨ましい高校生活を送っている。ただそんな羨ましい境遇にありながら、彼は呟く。「あとちょっと最近 将来のこととか考えるけど……どーせなるよーにしかならないわけだし/ま あまりゼイタク言っちゃいけないよね」。地方の退屈さに反抗するのでもなく、恵まれた高校生活から世の中を軽く楽観するのでもない。かといって、虚無的に自分の人生を見通しているのとも違う。この主人公がやけに良い。女教師と寿司屋で酒を飲みながら、主人公に対して「健康的だねえ」という教師に対して、彼は「先生は不健康的だねえ」と返すシーンがあるが、まさに彼は健康的で、そういう彼の感受性とか性格はそれこそ一昔前のもので、或いはフィクションの中にしかない感受性のようにも思えるけれど、実際の世の中の大半の人は凡庸で健康的な生き方を出来ているのではないかと思う。主人公がラグビー部員というのは気になるところで、たとえば地元にいる私の親戚の中学生なんて、生活の大半は学習塾と部活とで成り立っていて、たしかに学校の授業はあまり大きな意味を持っていないようだが、体育系の部活動というものはいまだ有効に機能しているように思うくらいに順調に(何が順調なのかという問題はあるが)育っているように見える。そういえば、大塚英志でも宮台真司でも誰でも良いのだが、現代の若者を分析する時に部活動(特に体育系の)というものがあまり出てこない気がするのは何故だろうか。それはともかく、よい台詞がいくつか出てきて付箋を貼りながら読んだのだけれど、そのひとつ「自分が誰かに影響するなんて 思ってもみなかった」を、こちらの日記でも引用されているのを発見した。大塚英志は「主体という幻想」(『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義』所収)の中でこんなことを言っている。

自らの言説が他者に作用し、そのことで他者が変わっていく。他者とコミュニケートしようとする時、ぼくたちはこの耐え難い欲望に直面する。自分の言説が他人のためになる、という願望、それによってぼくたちは他者に言説を投げつけることを自分に許容する。

連合赤軍事件における暴力とは、他者の「主体」の形成に自らが関与し得る、という独善であると僕は考える。

山本直樹のこの作品で、主人公の高校生と女教師の関係はべったりとしたものではなく、私は読んでいてその距離感に満足できないもの、寂しい感じを覚えたが、そう感じてしまうのは誤りなのだろうと思い直した。