小説

殊能将之ハサミ男』(講談社文庫)
トリックについては下にちょこっと書きます(ネタバラシあり)。
殺す側(犯人)と殺される側(被害者)、追う側(警察)と追われる側(犯人)、これら三者全てが同じ価値観を共有しているのが面白い。彼らはみな、人の内面や性格や性向といたものはカッコにくくって、表面に出てきた具体的な行動や物的な事実を重視している。ハサミ男は無動機殺人をおかし、警察の心理分析官は犯人の外見的特徴を捉えようとし、被害者の女子高生は人に心を動かされる経験をしたことがない。90年代以降顕著になった、心の闇やトラウマといった分かりやすいキーワードの流布に対する批判がここには見られる。意図的に人を殺すのと意図しないで人を殺すのとどちらが悪いのか。『だいたいで、いいじゃない』(文春文庫)の中で大塚英志が、自身と宮台真司を比較してこんな発言をしていたのを思い出す。

 宮台は人の心を、不可知の領域としてぽんと彼の思考の中に置いちゃって、いわば子供たちの悩みに関しては介入していかないし、分かったとか分からないというふうに行かない。(中略)
 宮台は僕のことをよくからかって批判するんだけど、つまり大塚は批評する対象の女の子なりおたくたちにすぐ同化しちゃう。それが大塚の限界だ、と言われている。確かにそのとおりで、僕が何かを語るときの前提は、常に対象に内面を見いだして、それと自分とを同一化させていくとか、その対比で批評していくやり方なんだけど、宮台からすれば、僕のスタイルがバツなのはいちばんそこなんですね。宮台は、相手の心の中に心を見ないんです。そこの切り捨て方というのが僕には新鮮で、ある意味ではショックで、宮台は僕をボロクソに言うんだけど、僕のほうは宮台を逆に評価しているのは、そこなんです。


以下、トリックについて。








犯人が○○とは最後まで分からなかったが、男/女の叙述トリックは100頁過ぎたあたりで分かった。だからその後は、ずっと太った女性の姿を想像しながら読み進めた。最後になって「美人」という点が強調されるのには辟易したが。叙述トリックに気づいたのは、私の勘違いがきっかけ(でもこれも伏線のような気がするんだが)。それは、バイト先の岡島部長の存在だ。最初岡島部長という文字が出てきたとき、私は勝手に男を想像していた。それが3ページほど後のところで女性だと明らかになる。このギャップが頭に残ってしまったのだ。また、彼女の言葉遣いが、まるで宝塚歌劇団の男役のようであったことも気になった。とにかく、語り手は女じゃないかと怪しくなってくると、ハサミ「男」というタイトルや、遺体発見者の女性、「わたし」という一人称、意外にグルメなところ、第一被害者の女子高生を送電塔にまで連れて行けたことや警戒心を抱かせずに殺害できたこと、など全てに納得が行き始めた。後半になって出てくる、例えばフリーライター黒梅夏絵が服装に気を使ったほうが良いとアドバイスするところなどは、作者もかなり分かりやすいヒントを出してきているように思う。前半にちりばめられた仕掛けを探すことこそが醍醐味だろう。