いとうせいこう『ノーライフキング』読了。

これは良い。文庫の解説では、この小説は子供時代の終わりを書いたのだと書かれている。それは確かに1つある。他にも、人が言葉を書くのは何故なのか、近い将来に死んでしまう人が切迫した気持ちで文章を記すのは、誰に何を訴えたいがためなのか、ということが、分析的にではなく、もがく人の地平に立って書かれている。
R・ブラッドベリを思わせた。ブラッドベリの小説は、科学技術の進歩をどちらかといえば肯定的に捉えているように思う。肯定的という語弊があるか。肯定も否定もしないというべきか。ともかく、高度な機械化が達成された社会は、確かに便利ですばらしい面があるということをしっかりと伝える。その上で、そんな物質的に豊かな社会の中にも、いつの時代にも普遍なものが残っていることを描く。それは人との別れや孤独や死やなどといったこと、及びそれに伴う悲しみや怒りといった感情だ。はじめに戻るが、だからといってそれは物質的な豊かさを批判ないし否定するものではないことが大事。「普遍」とはまさにそういうこと。モノが豊かであろうと無かろうと、逃れることの出来ないものだろう。
ノーライフキング』では、TVゲームという、(一昔前の)大人が否定的に捉える遊びの中にも、それを通じて子供たちが社会性を獲得していく(獲得せざるを得ない)要素が含まれていることを示している。
登場人物の会話、台詞がとてもひんやりとした感触を持っていて、その奥からやるせない哀しみが、それは絶対的な悪や根本的な問題が不在の、いわば人の持つ不条理性にのみ根拠を持つ哀しみ、がひしひしと伝わってくるところもブラッドベリに似ている。

ブラッドベリといえば、『ガタカ』という映画にも似た匂いを感じているのだが、どうだろうか。