村上龍限りなく透明に近いブルー』(講談社文庫)読了。解説で作品を「没主体の文学」と説明する今井裕康は、「ここにあるのは、ただ、見ること、見つづけることへの異様に醒めた情熱だけである」と書いている。さらに、それを読むものに強く感じさせるのは、麻薬やセックスや音楽の騒々しさだけでなく、何よりも文体である、と続けている。そういった文体の持つ力と比べると、直接的で説明的な、野暮ったいものかもしれないが、次のような台詞は、分かり易く作品の本質を述べてくれていると思う。
リュウ、あなた変な人よ、可愛そうな人だわ、目を閉じて浮かんでくるいろんな事を見ようってしてるんじゃないの?うまく言えないけど本当に心から楽しんでたら、その最中に何かを捜したり考えたりしないはずよ、違う?/あなた何かを見よう見ようってしてるのよ、まるで記憶しておいて後でその研究する学者みたいにさあ。小さな子供みたいに。実際子供なんだわ、子供の時は何ても見ようってするでしょ?(中略)リュウ、ねえ、赤ちゃんみたいに物を見ちゃだめよ」。

 高橋源一郎ぼくがしまうま語をしゃべった頃』所収の、谷川俊太郎との対談。そこでの高橋の発言。「でね、実は僕も、昔から、というか、ものを書き出す前から、感情欠乏症だったような気がしているんですよ。で、それはいつ頃からそうなったかを考えてたら、大体高校一年くらいからそうですね。(中略)映画見ても、本読んでも、感情がストレートじゃなくて、ワンクッション置いて遅れて出てくる。そして、それはたぶん僕だけじゃなくて、僕くらいの年代の人たちが、いまのような環境で育ってきたら、どうしてもワンクッションを置いて、浸透膜を感情が行ったり来たりするというのはあるんじゃないかと思う」。それに答えて谷川俊太郎は「……もしかすると、言葉というものを考えていくからそういうふうな状態になるってことだって考えられるよね」と述べている。言葉に拘ると余計に厄介な事態が生じるというのは、それこそ厄介な事態だ。

角田光代『キッドナップ・ツアー』(新潮文庫)読了。
語り手の少女の他に、2人の大人が出てくる。ひとりは少女の父親。もうひとりは少女の叔母(母親の妹)のゆうこさん。出てくるといっても、ゆうこさんの方はもっぱら少女の回想の中である。この2人に、著者が愛していた叔母さんの姿が投影されているのだろうなと思った。若く美しくかっこうよかったその叔母については、確かエッセイ集『これからはあるくのだ』に入っている文章で触れられていたと思う。大人と子供の関係が、友達感覚で、でもこれはテレビ番組で出てくる友達母娘とか、ましてやエイジレス(何だこの言葉・・・)な女とかといったこととは、おそらく全く別のものであるはずだ。